見捨てられたジャガイモ


 Kartoffeln stoppeln ジャガイモ拾い人は良いものだけを得ようとする。
ジャガイモもそうだ。秋空の下。収穫時、残されてしまった少しだけ形の悪いジャガイモ達に人々が集まる。
昔からヨーロッパの人々は、そんなジャガイモ達を拾うのが好きだ。収穫というイベントにエントリーされたものの、見事にダメ出しを受け、見捨てられた存在。かわいそうでもあり、可愛くもあるゴロゴロした彼ら

 

Stoppeln は通常の収穫のあとの二番収穫、二番刈り。Stoppelfeld は刈り入れの終わった畑か田

そんな彼らを拾うのは本当言うと「ないしょよ」の世界だ。

今は、畑の持ち主に許可を得れば良い場合もあるが、大抵は「ないしょよ、ないしょよ」なんて感じにしておきながら「でも行っちゃうもんね」と皆で?集まって拾いに行く。

ドイツは物価が高くない。特にジャガイモはいつでも安く買える。だから、買えば良いのだ。でも、わざわざ見捨てられたジャガイモ達のために汚れても良い服を着て長靴を履き、夢中になって探す。探したらしゃがんで採る。見捨てられたジャガイモ達は沢山いる。結構な労働なのだ。

ところで若者がせっせと、見捨てられたジャガイモ達を採りに行く所なんて見たことがない。確かに年配しかこの『遊び』はしない。

どうして年配の人は、この様な『遊び』をするのだろうか。僕はそう思っている。だから、僕はまだ年配じゃないのかもしれない。でも、かわいそうで可愛い彼らをそのままに出来ない。そんな気持ちも、何だか最近わかるようになってきた。

ただ、子どもの時、この『遊び』に参加させられた人は多い。子どもの時はバケツいっぱいになる見捨てられたジャガイモ達を想像出来なかった。
昔は、今と比べて見捨てられたジャガイモ達は畑に沢山無かった。

バケツ何杯くらいだろう。そんなに集めてないと思う。それでも何日もかかる事がよくあった。でも、家族のために、子ども達は皆していた。そのおかげでお母さんが美味しいポテトスープやポテトクネーデルを作ってくれる。

しかし、昔、畑の持ち主は見捨てられたジャガイモ達を僕達が採るなんて許さなかった。だから、見つかったら大変な事になっただろう。ライバルも沢山いたに違いない。頭の良い子や、足の速い子が有利だったはずだ。畑の持ち主を出し抜いて笑う彼らを想像すると、昔の友達に会いたくなってくる。
そう考えると、この『遊び』をしなくなった僕達は、まだまだ見捨てられたジャガイモ達を愛するには至っていない気がする。もちろん、足は遅くなったけど、畑の持ち主を出し抜くユーモアは、あの頃よりうんうんとある。そんな馬鹿みたいな強がり話しを、昔の友達としたくなったな.

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